第8回 自民党憲法改正草案の危険性
森川清氏
[首都圏生活保護支援法律家ネットワーク事務局長 弁護士]
家族主義的福祉レジームの強化
前回のコラムに書いた通り、国は社会保障政策において自助を強調し、公助を後退させるという方向性を明確に打ち出してきている。それをさらに裏打ちするのが、現行憲法をGHQによる押し付け憲法であると断じ、憲法改正に異様なまでの意欲を傾ける与党・自民党の憲法改正草案(平成24年4月27日決定)である。
同草案の24条1項には、こうある。「家族は、互いに助け合わなければならない」。これは言うまでもなく、社会保障における家族主義的福祉レジームの強化を表す文言であり、また同草案が国民の「権利保障・権利拡大から権利制限・義務拡大」を目指すものであることを象徴するような条文だ。
いまのところ将来的な危惧ではあるが、もし憲法改正が自民党の改正草案に沿うような形でなされ、「家族は、互いに助け合わなければならない」という義務が国民に課されるようになれば、生活保護制度はどうなるか。憲法25条の生存権規定が改正されなくても、「家族は、互いに助け合わなければならない」という条文の下、要保護者に対する親族の扶養義務が強調され、保護開始の要件はますます厳しくなっていくだろう。そして、その先にはさらに恐ろしい事態が待っている可能性がある。
向かうべきベクトルは真逆である
韓国には日本の生活保護制度に相当する「国民基礎生活保障制度」という制度があり、同制度には、「扶養義務者基準」という原則的基準がある。これは、どういうものか。本人の所得認定額が最低生計費(日本の生活保護基準)以下であっても、扶養義務者(本人の直系血族及び配偶者)が存在していて(同一生計でない)、その扶養義務者が一定所得以上であれば、申請者は受給権者となることができないというものである。公助の後退、ここに極まれりというような制度であるが、家族主義的福祉レジームの強化の果てに、日本でもこのような制度の導入が図られる可能性があることは否定できない。
あまりにも危険である。福祉を国が担うのではなく家族に担わせる。障害者といっしょに暮らす家庭などを例にとって考えるならば、向かうべきベクトルが真逆であることははっきりしている。
たとえば、子である障害者の社会的な自立のために別居して別世帯になったとしても、その子は生活保護を利用できていたのが、扶養義務者基準が設けられると、扶養義務者である親は(裕福でないにも関わらず)ぎりぎりまでの負担を強いられることになる。そうであれば、経済的には同居していたほうが有利になるので、子である障害者の社会的自立を断念しなければならなくなる。障害者以外でも認知症高齢者の介護を続け、生活が困難になり親子心中をする例もある。国が考えるべきは、生活保護をむしろ家族主義から解放する方向に向けることだ。
いま、この国に生存権の危機が目前に迫っている。生活保護バッシングなどにうつつを抜かしている時ではないのだ。私たちは、いまこそ国の社会保障政策のかじ取りを、曇りなき目で注視しなければならない。
>>第1回 生存権とは何か
>>第2回 ミーンズテストという通過儀礼
>>第3回 いまに生きる「劣等処遇原則」
>>第4回 吹き荒れる生活保護バッシングについて
>>第5回 ナショナルミニマムとしての生活保護基準
>>第6回 福祉事務所による違法行為はなぜ生じるのか
>>第7回 社会保障制度改革推進法の問題点について
森川清(もりかわ・きよし):葛飾区福祉事務所でケースワーカーとして勤務の後、弁護士へ。日弁連貧困問題対策本部運営委員、東京災害支援ネット代表等も務める。著書に「改正生活保護法 新版・権利としての生活保護法」(あけび書房刊)などがある。