Road to the Paralympics Tokyo
[第3回]

花岡伸和氏

[一般社団法人日本パラ陸上競技連盟 副理事長]

 

第3回 転機となったアメリカ体験

花岡伸和
>>第1回 私の原点
>>第2回 車いすマラソンとの出会い

障害の有無にかかわらず、努力が報われる世界

さて、山口悟志さんというトップアスリートの指導の下、車いすマラソンの修業に励んでいた私に、ある日、チャンスが訪れた。アメリカに渡り、ジム・クナーブという車いすマラソンの元世界記録保持者の指導を受ける機会を得たのである。

きっかけは、やはり師匠の山口さんだった。彼は、選手としていちばんいい時期に──おそらく手術の際の輸血によって感染した──肝炎によって競技に打ち込むことができなかったという苦い経験を持っていた。当時、山口さんは38歳。アスリートとしてもう一花咲かせるには、ぎりぎりの年齢だった。そこで、ジムの指導を受けて練習に明け暮れる道を選択したのである。

その話を山口さんから聞き、私は「じゃあ、1カ月付き合わせてください」と申し出た。まだ仕事に就く前の時期でタイミングも良かったし、このチャンスを逃す手はないと思ったからだ。しかし、当時の私は海外渡航はおろか、飛行機にすら乗ったことのない小僧っ子。よくあっさり決められたなと今になって思う。持前の楽天主義で、このときも「なんとかなる」と思っていたのだが、冷静に考えれば無鉄砲そのものである。

アメリカでの練習は、実りの多いものだった。しかし、車いすマラソンのトレーニング以上に、私にとって収穫だったのは、アメリカという国の文化の懐の深さに触れたことだった。

ひとことで言えば、努力が正当に報われる国なのだ。たとえば、私たちが師事することとなったジム・クナーブは──当時、引退間際ではあったが──プロフェッショナル・アスリートとして活動し、生計を立てている人だった。車いすのスポーツ選手であっても、自身の努力によって結果を残せば「プロ」として生きる道が開ける。障害者も健常者もなく、アスリートはアスリートとして受け入れる国がアメリカなのである。

私は第1回のコラムで、日本のメディアの障害者スポーツの取り上げ方にかすかな違和感を覚えていることを述べた。アメリカでは、そういうことはまったくない。たとえば、日本でいうと「陸上競技マガジン」のような雑誌の表紙に、車いすの競技者が載っていたりするのである。もっとも、最近は日本でもだいぶ状況が変わってきたことは付け加えておかなければならない。最近、私はある雑誌でシッティングバレーボールの記事を読んだのだが、その見出しにはたんに「バレーボール」とあるだけで、本文を読まなければそれが「障害者のシッティングバレーボール」に関する記事とはわからない構成になっていた。私が渡米した当時、「日本の状況はアメリカのそれに20年遅れている」と言われていたものだが、近年、日本もようやくその遅れにキャッチアップしつつあるということだろうか。

閑話休題。アメリカという国には、確かにチャンスがあった。しかし、それは裏返せば努力をしない人間には冷たいということでもある。チャンスをモノにしたかったら障害者であっても健常者であっても、必死で努力しなければならない。平等で合理的ではあるが、日本のように自助よりも公助が先に立つ国に生きる人間──とくに障害者はそうだろう──にとっては厳しい環境であることも確かだ。両国どちらのシステムがより優れているのかは一概には言えない。この辺、難しい問題である。

障害者は「特別な存在」ではない

ただ、ひとつだけ言えるのは、アメリカという国が障害者への接触の仕方において、日本よりもはるかに成熟していたということだ。それは、街に出てみればわかる。今から約20年前のことなので、たいぶ状況は変わってきているが、当時の日本では車いすで街を流していると、とにかくジロジロと見られたし、逆に必要以上に道を譲られたりもした。たんに街に出るだけで、自分で自分を「特別な存在」であるように感じざるを得なかったのである。

しかし、アメリカという国は違った。街に出ても特に見られることもないし、目が合えば軽く挨拶を交わすという具合。そして、より積極的な人は「なにか手伝うことはないか?」と声をかけてくる。こちらも、手助けが必要なら頼むし、そうでなければ「ありがとう」と言って断る。そうしたやりとりがごく自然に行われるので、自分で自分を「特別な存在」と感じさせられるようなことはない。言葉を換えれば障害者が「普通の存在」でいられるのだ。市民社会の成熟度の違いを、私は感じずにはいられなかった。

当たり前の話だが、障害者はただ障害者であるというだけで「特別な存在」であるわけではない。アメリカでは障害者であっても、特別な能力を持っているか、あるいは人並み以上の努力をしない限り「特別な存在」にはなれないのだ。それは確かに、健全な社会の在り方だと私は思う。

日本では、どこか努力という言葉の意味がはき違えられているような気が、私にはする。たとえば、ただ障害を持って生きているだけで「がんばっている」などと評されたりする。障害者の側も、ただ生きているだけで「がんばっている」と思い込んでいるようなフシがある。そうではない。障害者はただ「普通の存在」として「普通」に生きているだけなのだ。「普通の存在」であることが、すべてのスタートなのだ。

そして、そこから「特別な存在」になるために必要なのが、繰り返しになるが努力である。私自身も、車いすに乗ってスポーツをしているというだけでチヤホヤされた経験がある。それを「自分の努力の結果だ」と勘違いしてしまうのは危険だと思う。

確かに、障害を持ちながらスポーツに取り組む、あるいは就労をするということは、ある意味、挑戦ではあるだろう。しかし、人の一生というのは誰にとっても挑戦の連続ではないだろうか。その間の事情に、障害者と健常者の違いなどない。障害者も健常者も──人間誰しもが「普通の存在」として挑戦を重ねながら生きているのである。

私にとってアメリカ体験の最大の収穫は、そのことを改めて認識させてくれたことにあった。そして、それはその後の人生の選択において、私に重大な決意をもたらすことになったのである。

 

花岡伸和

アテネパラリンピック(2004年)の車いすマラソンで6位、ロンドン(12年)で5位に入賞した車いす陸上の国内トップアスリートが花岡伸和氏。マラソンを引退後は後進の指導に力を入れる一方、手でペダルをこぐ自転車「ハンドサイクル」に転向し、同競技での東京パラリンピック(20年)出場を目指している。

 

>>第1回 私の原点
>>第2回 車いすマラソンとの出会い
>>第3回 転機となったアメリカ体験
>>第4回 パラリンピックへの道(1)


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